世界遺産

富岡製糸場と絹産業遺産群

群馬県 企画部 世界遺産課

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絹産業とは : 養蚕・製糸・織物の歴史


絹・生糸・製糸の起源

絹の起源は、中国から始まったといわれています。これまでに発見された最古のものは、浙江省呉興縣の遺跡から出土した絹布(紀元前2,700年頃)や「二つに引き裂かれた繭」(紀元前3,000~2,300年)ですが、その他に殷代(紀元前1,500~1,000年)の絹布や甲骨文、周代(紀元前643年頃)の金蚕(蚕形の文鎮)等が発見されています。またその頃の絹織物のタテ・ヨコ糸には撚りのない糸が使われていました。

日本絹の里 第4回企画展「製糸」図録 より

日本における起源

わが国の起源は、定説がありませんが、日本書紀には、「保食神(うけもちのかみ)のみまかれる際、眉の上に蚕を生じ、・・・・・、天照大神は、その繭(蚕)を口に含んで絲をひくことをえた。これより初めて養蚕あり」という記述があります。また、中国の史書「魏志倭人伝」には、紀元3世紀に邪馬台国から魏に倭錦が贈られている記述があり、この頃すでに繭から糸を作る技術があったと推察されます。

日本絹の里 第4回企画展「製糸」図録 より

群馬における製糸の起源

群馬地方(上毛国)では、古くから甘楽地方に帰化人の往来があり、奈良時代に新田郡から貢納された黄絁一疋が正倉院に大切に保管されていることから、この頃には古典的な製糸が行われていたと考えられます。10世紀に編纂された延喜式には、畿内を除く61ヶ国中48ヶ国が絹生産国として記録され、その品位によって上糸国、中糸国、麁糸国と区分されていました。その頃、上野国は麁糸国・絁(あしぎぬ)の貢納国に数えられていましたが、麁糸とは、太糸の総称(本来の意味は紬糸)で、絁は太絹のことであり、古代上州の蚕業は、西国や畿内近辺の諸国に比べて伝播の時期も遅く、技術の水準のやや後進的であったようです。

日本絹の里 第4回企画展「製糸」図録 より

横浜開港と蚕糸業の躍進

アメリカのペリー(Perry,Matthew Calbraith)による開国の強制を契機に二百年余の鎖国が終わり、安政6年(1859)には貿易も開始されました。当時のフランスやイタリアにおいて微粒子病という蚕の病気が蔓延し、蚕種や生糸が不足していた事もあり、瞬く間に蚕種や生糸は最大の輸出品になり、国内では品不足も起きました。まさに日本の蚕糸業の飛躍の始まりです。
この中、伊勢崎市島村の田島弥平らはわが国はじめての蚕種会社「島村勧業会社」を設立、明治12年(1879)には、イタリアまで蚕種を持参して販売するなど、世界中に活躍の場を広げました。また、主力である生糸の輸出では、吾妻の中居屋重兵衛がいち早く横浜に進出、巨万の富を得たり、下村善太郎(後の前橋市初代市長)はじめ大間々や高崎の商人が生糸の輸出でめざましい活躍をしました。当時、良質な生糸の生産地と考えられた「前橋」の名は、ロンドンやフランスの絹織物産地リヨンで知れわたり、良質な日本生糸を「マイバシ(前橋:Mybash、Maibashiと記された)」と呼んだそうです。

製糸の技術革新と飛躍

生糸が輸出の花形産業になるにつれ製糸業もめざましい発展をとげました。当時、群馬県では改良座繰による製糸法が発達していました。改良座繰による生糸生産とは、各養蚕製糸農家で挽いた小枠の生糸を規格ごとに分けて、共同で大枠に揚げ返すもので、資本を持たない養蚕農家が組合製糸を組織したことにより、品質は向上し、生産量も飛躍的に拡大しました。
一方、洋式器械の導入による技術革新も行われ、前橋では、日本で初めてイタリア式の器械を導入し、明治3年(1870)前橋市に藩営製糸所が設置されました。また、明治5年(1872)、官営模範工場としての富岡製糸場は、フランス式の製糸器械を備えた大工場として操業を開始しました。
また、民間人として初めて製糸業を始めた星野長太郎は、生糸を直輸出するため実弟の新井領一郎をニューヨークに派遣しました。その後、領一郎はアメリカに住み着いて貿易商として活躍しました。(駐日大使であったライシャワー夫人ハルは、領一郎の孫)

養蚕技術の進歩

緑野(みどの)郡高山村(現、藤岡市)の高山長五郎(たかやまちょうごろう)は、明治初期に養蚕技術の指導を開始し、明治16年(1883)までに、東北地方に由来する「温暖育(おんだんいく)」と、島村(しまむら)(現、伊勢崎市)の田島弥平(たじまやへい)の「清涼育(せいりょういく)」とを融合させた飼育法、「清温育(せいおんいく)」を完成させました。
また、利根郡針山村(現、片品村)の永井紺周郎・いと夫妻による温暖育系の「いぶし飼い」も人々に歓迎されました。なかでも高山長五郎による清温育は、輸出需要増大を背景に全国各地で蚕糸業が展開する明治期、確実な繭生産を目指すため各地で支持を受け、全国標準の養蚕飼育法となりました。

県の奨励策

県においても、優良桑品種展示や桑苗配布事業など桑園改良に対する助成を行ったり、蚕病予防事務所を設けたりしました。
その後、蚕病予防事務所は蚕業取締所と改称して、蚕病予防を中心とした繭流通等の取締業務を行っていました。

繭生産と生糸輸出絶頂へ

大正時代、第1次世界大戦後のアメリカの経済は益々発達して絹の需要が高まり、わが国の蚕糸業は空前絶後の黄金時代を迎えました。
そして、昭和5年(1930)には繭生産量399千t、生糸輸出量581千俵を誇り、まさに絶頂期を向かえました。この頃、全国平均で農家の約4割が養蚕を行い、特に群馬、長野、山梨では、農家の7割が養蚕農家で占められていました。さらに養蚕にとって最も大きな出来事が起こりました。それは、外山亀太郎博士の研究による、「一代雑種:F1」による雑種強勢の利用が大正3年(1914)に実用化されたことです。この発見は、アメリカのトウモロコシの一代雑種の実用化に先駆けて、世界の農業技術のなかでも特筆すべき発見でした。

縮小に向かった蚕糸業

昭和4年(1929)世界恐慌の打撃を受け、生糸や繭が大暴落しました。さらにその後のアメリカにおけるレーヨンなどの人絹工業の驚異的な発展や、昭和13年(1938年)、アメリカのデュポン社によるナイロンの発明が、靴下の分野における生糸の需要を侵食していきました。
昭和16年(1941)には、蚕糸業統制法が制定されて生糸輸出の途絶と内需転換が図られました。その後、アメリカは対日資産を凍結、日本との経済交流は断絶し、遂に日本は第2次世界大戦へ突入したのです。戦時下の群馬県の養蚕は衰退し、昭和14年以降22年までの8カ年間で、最盛期の頃に較べ桑園は60%、繭生産は26%にまで縮小しました。

戦後の復興とその後

昭和20年(1945)終戦後の日本の復興のためには、食糧の輸入が絶対に必要であり、外貨獲得のため再び養蚕が奨励され、国は、全国の郡単位に蚕業技術指導所(群馬12カ所)を設けて技術の改良と普及に努めました。そして、昭和25年(1950)夏に勃発した朝鮮戦争は特需景気をよび、生糸需要が増大して繭価は上がり、繭不足が起こるほどになり、その後も増産は続き、昭和29年(1954)、群馬県は16,759tの繭(全国の約17%)を生産して全国一となり、現在までその地位を維持しています。
また、昭和30年代後半からの高度成長につれて絹の国内需要がさらに増加し、もともと貿易上の自由化品目であった生糸は、中国や韓国から生糸が輸入されるようになりました。
しかし、昭和40年代の後半からは和装需要が減退すると共に昭和60年以降の絹二次製品輸入の増大により、国内養蚕業は急激に減少し、今や消滅の危機を迎えています。

社会・文化面での影響

幕末から昭和40年代まで盛んであった蚕糸業は、社会・文化面でも大きな影響を国民生活に与えました。日本を代表する文人の徳富蘆花は、明治期の群馬県の印象を「機の音、製糸の煙、桑の海・・・・」と詠むなど、近代文学の中にも蚕糸業はとけ込んでいます。
このため、「春駒」(川場村)や「蚕の舞」(前橋市)など県内各地に養蚕の豊作を祈願した祭事の他、様々な行事が今でも県内各地に残されています。

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