永井紺周郎は、火力を積極的に使う飼育法に気づき、種々の改良を加え、永井流養蚕術を確立しました。 紺周郎が他界した翌年の明治21年(1888)頃に永井流養蚕術の伝習所として建設されました。夫の意思を継いだ妻のいとが教師となり、ここで1,500名もの人々に技術を伝えました。