~世界を変えた日本の技術革新~
世界遺産としての価値
「富岡製糸場と絹産業遺産群」は、長い間生産量が限られていた生糸の大量生産を実現した「技術革新」と、世界と日本との間の「技術交流」を主題とした近代の絹産業に関する遺産です。日本が開発した生糸の大量生産技術は、かつて一部の特権階級のものであった絹を世界中の人々に広め、その生活や文化をさらに豊かなものに変えました。
歴史的な背景
絹は紀元前の中国で発明され、19世紀のヨーロッパで大量生産が始まりました。このころ開国した日本は技術の輸入に努め、明治5年(1872)には富岡製糸場が設立され、全国各地の製糸業が近代化しました。さらに独自に養蚕の技術革新も起こり、原料繭の大量生産に成功しました、その結果、日本は20世紀はじめには世界中に安価で良質な生糸を輸出、高級繊維の絹をより身近な存在に変えました。さらに第2次世界大戦後は、生糸生産のオートメーション化にも成功、自動繰糸機は世界中に輸出され、絹の大衆化に貢献し、現在も世界の絹産業を支えています。
構成資産の位置図
資産紹介
明治5年(1872)に明治政府が設立した官営の器械製糸場です。民営化後も一貫して製糸を行い、製糸技術開発の最先端として国内養蚕・製糸業を世界一の水準に牽引しました。また、田島家、高山社、荒船風穴などと連携して、蚕の優良品種の開発と普及を主導しました。
通風を重視した蚕の飼育法「清涼育」を大成した田島弥平が、文久3年(1863)に建てた住居兼蚕室です。間口約25m、奥行約9mの瓦葺き総2階建てで、初めて屋根に換気用の越屋根が付けられました。
明治16年(1883)、高山長五郎は、通風と温度管理を調和させた「清温育」という蚕の飼育法を確立しました。翌年、この地に設立された養蚕教育機関高山社は、その技術を全国及び海外に広め、清温育は全国標準の養蚕法となりました。
明治38年(1905)から大正3年(1914)頃に造られました。岩の隙間から吹き出す冷気を利用した蚕種(蚕の卵)の貯蔵施設で、冷蔵技術を活かし、当時年1回だった養蚕を複数回可能にしました。